CJCUC Condemns Recent Vandalism Against Christian Holy Sites
The Center for Jewish-Christian Understanding and Cooperation in Israel condemns the most recent vandalism against Jerusalem’s Church of the Dormition Abbey.This attack and others like
The Center for Jewish-Christian Understanding and Cooperation in Israel condemns the most recent vandalism against Jerusalem’s Church of the Dormition Abbey.This attack and others like
Last month, CJCUC published on its website, a groundbreaking statement on Christianity by Orthodox rabbis. Most reactions to the statement were positive and welcoming, yet
2015年12月3日 天にまします我らの父のみこころを行うために: ユダヤ教徒とキリスト教徒のパートナーシップを目指し 互いに反発し、仲たがいの関係にあった約2000年の時を経て、イスラエル、米国、ヨーロッパでの地域共同体、諸機関、神学校をけん引してきた我々正統派ラビは、目の前にしている時代を歴史的な転換点としてとらえています。私たちが希求していることは、キリスト教徒の兄弟姉妹から差し伸べられた手を受け止め、天におられる我々の御父の御心を行うことです。ユダヤ教徒とキリスト教徒は、同労者(パートナー)として互いに働き、今日の時代が抱える善悪に係る挑戦的な諸課題の解決に取り組むべきだと考えます。 ナチスによるユダヤ人大虐殺[2]が終焉して70年経ちました。ホロコーストは、何世紀にも亘って、ユダヤ人を侮辱し、抑圧し、排斥するという歪んだ発想の極限の出来事であり、ユダヤ教徒とキリスト教徒との間に発生した敵意の産物でありました。回想するに、明らかになったこととは、この侮蔑的行為を打破し、人類の徳を高めるために建設的な対話を行うことに失敗してしまったということは、世界を殺戮と虐殺の海に呑みこみさせた反セム主義の悪の力に対抗する力を脆弱にさせた、ということであります。 第ニバチカン公会議以降、ユダヤ教に係るカトリック教会の公の教えは、根本的に、また、逆行することなく、変わってきたと、私たちは認識しております。50年前に「今日の時代:Nostra Aetate」と題する『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』が公布されましたが、この宣言によりユダヤ教とキリスト教との両者が和解に向けて歩みを始めました。「今日の時代」とそれに続く数々の教会文書は、明らかに霊的に啓示を受けながら、いかなる反セム主義を拒み、神とユダヤ民族との間に交わされた永遠の契約を確認し、神を無効にする一切の考えを拒み、キリスト教徒とユダヤ教徒との間にある独特な関係を強調しています。これらの公文書を通じて、ヨハネ・パウロ二世教皇はユダヤ教徒を「キリスト教徒の兄」と呼び、また、ベネディクト十六世教皇は「信仰におけるキリスト教徒の父祖」と形容しました。これを土台に、カトリック教会ならびにその他の教派の教会指導者は、ユダヤ教徒と誠意ある対話を始め、過去50年間に亘り対話は醸成してきています。神聖なる歴史において、また、究極的には世界の罪のあがないの過程における、イスラエルの独特な位置づけを教会が確認したことを、私たちは評価しています。今日、多くのキリスト教徒が、世界中で行われている対話のイニシアティブ、会合や会議の中で表明される、ユダヤ教徒に払われる心からの愛と敬意を、今日のユダヤ教徒は経験しています。 マイモニデス[3]やイェフダ・ハレヴィ[4]が認めたように、私たちも、キリスト教信仰が偶然の産物でも、間違ったものでもなく、諸国民に対する神のご意思による産物であり贈り物であると受け止めています。ユダヤ教とキリスト教を併存させていることは、かなりの神学上の差異があるものの、同労者(パートナー)として神の御心にあって併存し、敵対する関係として併存しているわけではありません。ラビ・ヤコブ・エムデン[5]が次のように記しています。「イエスは世界に二つのよいことをもたらした。ひとつは、モーセのトラーを、威厳をもってより厳格にさせた点。そして、イエスよりもトラーの不変性を力強く主張した我々の賢者は誰一人いませんでした。一方、諸国民から偶像をイエスは取り除き、諸国民にノアの7つの律法を順守させ、もはや野にある獣のような振る舞いをすることを止めさせ、善悪をわきまえた道徳的品性を諸国民に堅くしみ込ませました。キリスト教徒とは、天の目的のために働くよう前もって忍耐するよう定められた者の群れであり、彼らの意思は天のためにあり、その報いは報われないものではありません。ラビ・サムソン・ラファエル・ヒルシュ[6]は、「キリスト教徒は旧約のユダヤ教徒の聖書を神の啓示の書として受け止めた。キリスト教徒は聖書が宣言しているように天と地を創造した神を信仰すると公言しており、また、キリスト教徒は神の摂理の主権を認めている」と私たちに教えています。カトリック教会が神とイスラエルとの間に結ばれている永遠の契約を認めた今日、ユダヤ教徒は、この世の罪のあがないという文脈において、私たちの同労者にあたるキリスト教徒との間で連綿となされている建設的な議論の妥当性を、そのことがキリスト教徒がユダヤ教徒を改宗する目的に用いられるのではないかという危惧を抱くことなく、認めることができると考えます。ラビ・シーアル・ヤシュヴ・コーエン[7]の導きの下、イスラエル宗務庁(ラビ長府)[8]のバチカン[9]との二国間委員会が正式に表明しているように、「我々はもはや敵対する関係ではなく、人類の存続と繁栄に欠かせない道徳的規範を明らかにするうえで明確な同労者(パートナー)である」。私たちのいずれかが単独でこの世において神の使命を達成することは出来ません。 ユダヤ教徒とキリスト教徒は全能なる方[10]の主権の下、世を完成に仕上げる共通の契約的使命を共有しており、そのことによって、全人類は主の御名を呼び求め、そのことにより主が忌み嫌われるいっさいのことが地上から取り除かれることになります。私たちはこの真理を断言することに両者にためらいがあることを理解しており、ユダヤ教徒とキリスト教徒のそれぞれの群れが信頼と敬意の関係を確立するために、これらの恐れを乗り越えるよう求めるものです。ラビ・ヒルシュは次のことも教えられました。すなわち、「タルムード[11]は、人と人との間で果される責務に関して、キリスト教徒はユダヤ教徒と同じ基準に置くものとする。両者は、義のみならず、行動的な人類の兄弟愛に係る全ての責務からもたらされる益を享受するものである」。過去において、キリスト教徒とユダヤ教徒との関係は、しばしば、エサウとヤコブとの間の敵対する関係を通して、見られていました。しかし、ラビ・ナフタリ・ツヴィ(・イェフダ)・ベルリン[12](ネツイヴ)は、すでに19世紀末期において、ユダヤ教徒とキリスト教徒は神によって愛し合う同労者(パートナー)になることが予め定められていると悟っていました。即ち、「将来、エサウの子孫が、純粋な霊(心)からイスラエルの民と彼らの徳を認識するよう心が動かされた時には、わたしたちもエサウが私たちの兄弟であると受け止めるよう心が動かされるであろう」と。 私たちユダヤ教徒とキリスト教徒は、お互いを分け隔てているものよりも、より多くのことを共有しています。即ち、アブラハムの道義にかなった一神教、天と地を創造された唯一の方との関係、私たち全員を愛され心を割かれる方、ユダヤ教徒の神聖な聖書、契約に結束する伝統への信念、命の価値、家族の価値、あわれみ深さの価値、正義の価値、義の価値、奪うことのできない自由の価値、普遍的な愛の価値、恒久的な世の平安の価値、を共有しています。ラビ・モーゼス・リヴィキス(ベエル・ハゴレ)は、このことが間違いがないとし、次のように記しました。すなわち、「賢人たちは、この世の創造、出エジプト記、神の奇跡的な働きと与えたもう聖なる律法を信じない、彼らの時代の偶像礼拝者たちに言及したのであった。対照的に、わたしたちが離散した先の人々の中から、まことの民が宗教上のこれらすべての本質を信じる」、と記しました。 私たちのパートナーシップが、ユダヤ教徒とキリスト教徒のそれぞれの共同体および二つの宗教との間にまたがる相違を、決して軽視するものではありません。ユダヤ教が全ての人類に普遍的に与えられたノアの契約を通じていつも教えてきた内容、即ち、神の御前で全ての民が果たす根源的で道義的な責務を確認しているその中で、神は多くの御使いを遣わし、神の真理を啓示するものであると、私たちは信じます。 神を真似ながら、ユダヤ教徒とキリスト教徒は、奉仕、無条件の愛、そして、聖さを捧げなければなりません。わたしたちは、全員、神の聖いかたちに創造されており、ユダヤ教徒とキリスト教徒は、この世を贖う働きの中にあって、共に積極的な役割を果たすことにより、永遠の契約に捧げられることに留まれることになります。 現時点での署名者一覧(アルファベッド順) Initial signatories (in alphabetical order): Rabbi Jehoshua Ahrens (Germany) Rabbi
The Center for Jewish-Christian Understanding and Cooperation in Israel condemns the most recent vandalism against Jerusalem’s Church of the Dormition Abbey.This attack and others like it have no place in Israel, which is committed to protect the religious rights and
Last month, CJCUC published on its website, a groundbreaking statement on Christianity by Orthodox rabbis. Most reactions to the statement were positive and welcoming, yet some agenda-driven persons have distorted the meaning of our statement to advance their agenda. Breaking
2015年12月3日 天にまします我らの父のみこころを行うために: ユダヤ教徒とキリスト教徒のパートナーシップを目指し 互いに反発し、仲たがいの関係にあった約2000年の時を経て、イスラエル、米国、ヨーロッパでの地域共同体、諸機関、神学校をけん引してきた我々正統派ラビは、目の前にしている時代を歴史的な転換点としてとらえています。私たちが希求していることは、キリスト教徒の兄弟姉妹から差し伸べられた手を受け止め、天におられる我々の御父の御心を行うことです。ユダヤ教徒とキリスト教徒は、同労者(パートナー)として互いに働き、今日の時代が抱える善悪に係る挑戦的な諸課題の解決に取り組むべきだと考えます。 ナチスによるユダヤ人大虐殺[2]が終焉して70年経ちました。ホロコーストは、何世紀にも亘って、ユダヤ人を侮辱し、抑圧し、排斥するという歪んだ発想の極限の出来事であり、ユダヤ教徒とキリスト教徒との間に発生した敵意の産物でありました。回想するに、明らかになったこととは、この侮蔑的行為を打破し、人類の徳を高めるために建設的な対話を行うことに失敗してしまったということは、世界を殺戮と虐殺の海に呑みこみさせた反セム主義の悪の力に対抗する力を脆弱にさせた、ということであります。 第ニバチカン公会議以降、ユダヤ教に係るカトリック教会の公の教えは、根本的に、また、逆行することなく、変わってきたと、私たちは認識しております。50年前に「今日の時代:Nostra Aetate」と題する『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』が公布されましたが、この宣言によりユダヤ教とキリスト教との両者が和解に向けて歩みを始めました。「今日の時代」とそれに続く数々の教会文書は、明らかに霊的に啓示を受けながら、いかなる反セム主義を拒み、神とユダヤ民族との間に交わされた永遠の契約を確認し、神を無効にする一切の考えを拒み、キリスト教徒とユダヤ教徒との間にある独特な関係を強調しています。これらの公文書を通じて、ヨハネ・パウロ二世教皇はユダヤ教徒を「キリスト教徒の兄」と呼び、また、ベネディクト十六世教皇は「信仰におけるキリスト教徒の父祖」と形容しました。これを土台に、カトリック教会ならびにその他の教派の教会指導者は、ユダヤ教徒と誠意ある対話を始め、過去50年間に亘り対話は醸成してきています。神聖なる歴史において、また、究極的には世界の罪のあがないの過程における、イスラエルの独特な位置づけを教会が確認したことを、私たちは評価しています。今日、多くのキリスト教徒が、世界中で行われている対話のイニシアティブ、会合や会議の中で表明される、ユダヤ教徒に払われる心からの愛と敬意を、今日のユダヤ教徒は経験しています。 マイモニデス[3]やイェフダ・ハレヴィ[4]が認めたように、私たちも、キリスト教信仰が偶然の産物でも、間違ったものでもなく、諸国民に対する神のご意思による産物であり贈り物であると受け止めています。ユダヤ教とキリスト教を併存させていることは、かなりの神学上の差異があるものの、同労者(パートナー)として神の御心にあって併存し、敵対する関係として併存しているわけではありません。ラビ・ヤコブ・エムデン[5]が次のように記しています。「イエスは世界に二つのよいことをもたらした。ひとつは、モーセのトラーを、威厳をもってより厳格にさせた点。そして、イエスよりもトラーの不変性を力強く主張した我々の賢者は誰一人いませんでした。一方、諸国民から偶像をイエスは取り除き、諸国民にノアの7つの律法を順守させ、もはや野にある獣のような振る舞いをすることを止めさせ、善悪をわきまえた道徳的品性を諸国民に堅くしみ込ませました。キリスト教徒とは、天の目的のために働くよう前もって忍耐するよう定められた者の群れであり、彼らの意思は天のためにあり、その報いは報われないものではありません。ラビ・サムソン・ラファエル・ヒルシュ[6]は、「キリスト教徒は旧約のユダヤ教徒の聖書を神の啓示の書として受け止めた。キリスト教徒は聖書が宣言しているように天と地を創造した神を信仰すると公言しており、また、キリスト教徒は神の摂理の主権を認めている」と私たちに教えています。カトリック教会が神とイスラエルとの間に結ばれている永遠の契約を認めた今日、ユダヤ教徒は、この世の罪のあがないという文脈において、私たちの同労者にあたるキリスト教徒との間で連綿となされている建設的な議論の妥当性を、そのことがキリスト教徒がユダヤ教徒を改宗する目的に用いられるのではないかという危惧を抱くことなく、認めることができると考えます。ラビ・シーアル・ヤシュヴ・コーエン[7]の導きの下、イスラエル宗務庁(ラビ長府)[8]のバチカン[9]との二国間委員会が正式に表明しているように、「我々はもはや敵対する関係ではなく、人類の存続と繁栄に欠かせない道徳的規範を明らかにするうえで明確な同労者(パートナー)である」。私たちのいずれかが単独でこの世において神の使命を達成することは出来ません。 ユダヤ教徒とキリスト教徒は全能なる方[10]の主権の下、世を完成に仕上げる共通の契約的使命を共有しており、そのことによって、全人類は主の御名を呼び求め、そのことにより主が忌み嫌われるいっさいのことが地上から取り除かれることになります。私たちはこの真理を断言することに両者にためらいがあることを理解しており、ユダヤ教徒とキリスト教徒のそれぞれの群れが信頼と敬意の関係を確立するために、これらの恐れを乗り越えるよう求めるものです。ラビ・ヒルシュは次のことも教えられました。すなわち、「タルムード[11]は、人と人との間で果される責務に関して、キリスト教徒はユダヤ教徒と同じ基準に置くものとする。両者は、義のみならず、行動的な人類の兄弟愛に係る全ての責務からもたらされる益を享受するものである」。過去において、キリスト教徒とユダヤ教徒との関係は、しばしば、エサウとヤコブとの間の敵対する関係を通して、見られていました。しかし、ラビ・ナフタリ・ツヴィ(・イェフダ)・ベルリン[12](ネツイヴ)は、すでに19世紀末期において、ユダヤ教徒とキリスト教徒は神によって愛し合う同労者(パートナー)になることが予め定められていると悟っていました。即ち、「将来、エサウの子孫が、純粋な霊(心)からイスラエルの民と彼らの徳を認識するよう心が動かされた時には、わたしたちもエサウが私たちの兄弟であると受け止めるよう心が動かされるであろう」と。 私たちユダヤ教徒とキリスト教徒は、お互いを分け隔てているものよりも、より多くのことを共有しています。即ち、アブラハムの道義にかなった一神教、天と地を創造された唯一の方との関係、私たち全員を愛され心を割かれる方、ユダヤ教徒の神聖な聖書、契約に結束する伝統への信念、命の価値、家族の価値、あわれみ深さの価値、正義の価値、義の価値、奪うことのできない自由の価値、普遍的な愛の価値、恒久的な世の平安の価値、を共有しています。ラビ・モーゼス・リヴィキス(ベエル・ハゴレ)は、このことが間違いがないとし、次のように記しました。すなわち、「賢人たちは、この世の創造、出エジプト記、神の奇跡的な働きと与えたもう聖なる律法を信じない、彼らの時代の偶像礼拝者たちに言及したのであった。対照的に、わたしたちが離散した先の人々の中から、まことの民が宗教上のこれらすべての本質を信じる」、と記しました。 私たちのパートナーシップが、ユダヤ教徒とキリスト教徒のそれぞれの共同体および二つの宗教との間にまたがる相違を、決して軽視するものではありません。ユダヤ教が全ての人類に普遍的に与えられたノアの契約を通じていつも教えてきた内容、即ち、神の御前で全ての民が果たす根源的で道義的な責務を確認しているその中で、神は多くの御使いを遣わし、神の真理を啓示するものであると、私たちは信じます。 神を真似ながら、ユダヤ教徒とキリスト教徒は、奉仕、無条件の愛、そして、聖さを捧げなければなりません。わたしたちは、全員、神の聖いかたちに創造されており、ユダヤ教徒とキリスト教徒は、この世を贖う働きの中にあって、共に積極的な役割を果たすことにより、永遠の契約に捧げられることに留まれることになります。 現時点での署名者一覧(アルファベッド順) Initial signatories (in alphabetical order): Rabbi Jehoshua Ahrens (Germany) Rabbi Marc Angel (United States) Rabbi Isak Asiel (Chief Rabbi of Serbia) Rabbi David Bigman (Israel)
The Center for Jewish-Christian Understanding and Cooperation in Israel condemns the most recent vandalism against Jerusalem’s Church of the Dormition Abbey.This attack and others like
Last month, CJCUC published on its website, a groundbreaking statement on Christianity by Orthodox rabbis. Most reactions to the statement were positive and welcoming, yet
2015年12月3日 天にまします我らの父のみこころを行うために: ユダヤ教徒とキリスト教徒のパートナーシップを目指し 互いに反発し、仲たがいの関係にあった約2000年の時を経て、イスラエル、米国、ヨーロッパでの地域共同体、諸機関、神学校をけん引してきた我々正統派ラビは、目の前にしている時代を歴史的な転換点としてとらえています。私たちが希求していることは、キリスト教徒の兄弟姉妹から差し伸べられた手を受け止め、天におられる我々の御父の御心を行うことです。ユダヤ教徒とキリスト教徒は、同労者(パートナー)として互いに働き、今日の時代が抱える善悪に係る挑戦的な諸課題の解決に取り組むべきだと考えます。 ナチスによるユダヤ人大虐殺[2]が終焉して70年経ちました。ホロコーストは、何世紀にも亘って、ユダヤ人を侮辱し、抑圧し、排斥するという歪んだ発想の極限の出来事であり、ユダヤ教徒とキリスト教徒との間に発生した敵意の産物でありました。回想するに、明らかになったこととは、この侮蔑的行為を打破し、人類の徳を高めるために建設的な対話を行うことに失敗してしまったということは、世界を殺戮と虐殺の海に呑みこみさせた反セム主義の悪の力に対抗する力を脆弱にさせた、ということであります。 第ニバチカン公会議以降、ユダヤ教に係るカトリック教会の公の教えは、根本的に、また、逆行することなく、変わってきたと、私たちは認識しております。50年前に「今日の時代:Nostra Aetate」と題する『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』が公布されましたが、この宣言によりユダヤ教とキリスト教との両者が和解に向けて歩みを始めました。「今日の時代」とそれに続く数々の教会文書は、明らかに霊的に啓示を受けながら、いかなる反セム主義を拒み、神とユダヤ民族との間に交わされた永遠の契約を確認し、神を無効にする一切の考えを拒み、キリスト教徒とユダヤ教徒との間にある独特な関係を強調しています。これらの公文書を通じて、ヨハネ・パウロ二世教皇はユダヤ教徒を「キリスト教徒の兄」と呼び、また、ベネディクト十六世教皇は「信仰におけるキリスト教徒の父祖」と形容しました。これを土台に、カトリック教会ならびにその他の教派の教会指導者は、ユダヤ教徒と誠意ある対話を始め、過去50年間に亘り対話は醸成してきています。神聖なる歴史において、また、究極的には世界の罪のあがないの過程における、イスラエルの独特な位置づけを教会が確認したことを、私たちは評価しています。今日、多くのキリスト教徒が、世界中で行われている対話のイニシアティブ、会合や会議の中で表明される、ユダヤ教徒に払われる心からの愛と敬意を、今日のユダヤ教徒は経験しています。 マイモニデス[3]やイェフダ・ハレヴィ[4]が認めたように、私たちも、キリスト教信仰が偶然の産物でも、間違ったものでもなく、諸国民に対する神のご意思による産物であり贈り物であると受け止めています。ユダヤ教とキリスト教を併存させていることは、かなりの神学上の差異があるものの、同労者(パートナー)として神の御心にあって併存し、敵対する関係として併存しているわけではありません。ラビ・ヤコブ・エムデン[5]が次のように記しています。「イエスは世界に二つのよいことをもたらした。ひとつは、モーセのトラーを、威厳をもってより厳格にさせた点。そして、イエスよりもトラーの不変性を力強く主張した我々の賢者は誰一人いませんでした。一方、諸国民から偶像をイエスは取り除き、諸国民にノアの7つの律法を順守させ、もはや野にある獣のような振る舞いをすることを止めさせ、善悪をわきまえた道徳的品性を諸国民に堅くしみ込ませました。キリスト教徒とは、天の目的のために働くよう前もって忍耐するよう定められた者の群れであり、彼らの意思は天のためにあり、その報いは報われないものではありません。ラビ・サムソン・ラファエル・ヒルシュ[6]は、「キリスト教徒は旧約のユダヤ教徒の聖書を神の啓示の書として受け止めた。キリスト教徒は聖書が宣言しているように天と地を創造した神を信仰すると公言しており、また、キリスト教徒は神の摂理の主権を認めている」と私たちに教えています。カトリック教会が神とイスラエルとの間に結ばれている永遠の契約を認めた今日、ユダヤ教徒は、この世の罪のあがないという文脈において、私たちの同労者にあたるキリスト教徒との間で連綿となされている建設的な議論の妥当性を、そのことがキリスト教徒がユダヤ教徒を改宗する目的に用いられるのではないかという危惧を抱くことなく、認めることができると考えます。ラビ・シーアル・ヤシュヴ・コーエン[7]の導きの下、イスラエル宗務庁(ラビ長府)[8]のバチカン[9]との二国間委員会が正式に表明しているように、「我々はもはや敵対する関係ではなく、人類の存続と繁栄に欠かせない道徳的規範を明らかにするうえで明確な同労者(パートナー)である」。私たちのいずれかが単独でこの世において神の使命を達成することは出来ません。 ユダヤ教徒とキリスト教徒は全能なる方[10]の主権の下、世を完成に仕上げる共通の契約的使命を共有しており、そのことによって、全人類は主の御名を呼び求め、そのことにより主が忌み嫌われるいっさいのことが地上から取り除かれることになります。私たちはこの真理を断言することに両者にためらいがあることを理解しており、ユダヤ教徒とキリスト教徒のそれぞれの群れが信頼と敬意の関係を確立するために、これらの恐れを乗り越えるよう求めるものです。ラビ・ヒルシュは次のことも教えられました。すなわち、「タルムード[11]は、人と人との間で果される責務に関して、キリスト教徒はユダヤ教徒と同じ基準に置くものとする。両者は、義のみならず、行動的な人類の兄弟愛に係る全ての責務からもたらされる益を享受するものである」。過去において、キリスト教徒とユダヤ教徒との関係は、しばしば、エサウとヤコブとの間の敵対する関係を通して、見られていました。しかし、ラビ・ナフタリ・ツヴィ(・イェフダ)・ベルリン[12](ネツイヴ)は、すでに19世紀末期において、ユダヤ教徒とキリスト教徒は神によって愛し合う同労者(パートナー)になることが予め定められていると悟っていました。即ち、「将来、エサウの子孫が、純粋な霊(心)からイスラエルの民と彼らの徳を認識するよう心が動かされた時には、わたしたちもエサウが私たちの兄弟であると受け止めるよう心が動かされるであろう」と。 私たちユダヤ教徒とキリスト教徒は、お互いを分け隔てているものよりも、より多くのことを共有しています。即ち、アブラハムの道義にかなった一神教、天と地を創造された唯一の方との関係、私たち全員を愛され心を割かれる方、ユダヤ教徒の神聖な聖書、契約に結束する伝統への信念、命の価値、家族の価値、あわれみ深さの価値、正義の価値、義の価値、奪うことのできない自由の価値、普遍的な愛の価値、恒久的な世の平安の価値、を共有しています。ラビ・モーゼス・リヴィキス(ベエル・ハゴレ)は、このことが間違いがないとし、次のように記しました。すなわち、「賢人たちは、この世の創造、出エジプト記、神の奇跡的な働きと与えたもう聖なる律法を信じない、彼らの時代の偶像礼拝者たちに言及したのであった。対照的に、わたしたちが離散した先の人々の中から、まことの民が宗教上のこれらすべての本質を信じる」、と記しました。 私たちのパートナーシップが、ユダヤ教徒とキリスト教徒のそれぞれの共同体および二つの宗教との間にまたがる相違を、決して軽視するものではありません。ユダヤ教が全ての人類に普遍的に与えられたノアの契約を通じていつも教えてきた内容、即ち、神の御前で全ての民が果たす根源的で道義的な責務を確認しているその中で、神は多くの御使いを遣わし、神の真理を啓示するものであると、私たちは信じます。 神を真似ながら、ユダヤ教徒とキリスト教徒は、奉仕、無条件の愛、そして、聖さを捧げなければなりません。わたしたちは、全員、神の聖いかたちに創造されており、ユダヤ教徒とキリスト教徒は、この世を贖う働きの中にあって、共に積極的な役割を果たすことにより、永遠の契約に捧げられることに留まれることになります。 現時点での署名者一覧(アルファベッド順) Initial signatories (in alphabetical order): Rabbi Jehoshua Ahrens (Germany) Rabbi
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